
先日、新聞を読んでると、写真のような個性のない建物をある建築史家の方が、「ビジネススーツ・ビル」と
命名したと書いてありました。何の特徴もないどこにでもある・・・と言う意味だと思います。
そして、最近はビジネススーツビルばかりで個性のある建物ができにくい、とのこと。
例えば、オリンピックのメイン会場(新国立競技場)は、元々ザハ・ハディドと言うイラク出身の女性建築家が、
おもしろいデザインを提案し、それに決まっていたのですが、
後から「奇抜すぎる。」「建築が難しい。」「金がかかる。」といった批判が続出し、
ネットなんかでも大炎上した結果、普通の何の変哲もない(個人的な意見ですが・・)スタジアムになってしまいました。
これなんかもそうですが、何か違うことや今までにないこと、普通の人とは違う考えなどが表に出ると、
寄ってたかって批判し、結果的に丸く丸くしてしまうことが最近多いような気がしますね。
1964年の東京オリンピックの時は、丹下健三氏による吊り橋のような代々木体育館や日本武道館のような、
今でも残るランドマーク的な建物ができましたが、費用もそれなりに高く、技術的にも難しいので
今なら、批判が殺到してできなかっただろうと思います。
そうなると、その建物を見て、その時々の心に残った思い出が蘇ることもないでしょうし、
建物に歴史や物語を感じることもない、どこにでもある”器”にしか過ぎない物ばかりになってしまいます。
奇抜だからこそやりがいがあり、難しいからこそ技術が進歩するのだと思いますが、
今回の新国立競技場は、日本建築の成長を放棄したようにも思えて残念な気持ちになります。
建物に限らず、人のやることでも、やったことのないアイデアや奇抜な施策、常人と違う行動などには、
すぐにマスコミやネットで反応し、袋叩きにすることがあります。
例えば、政治家は大胆なことを敢行するよりも、ミスの少ない、誰でもやれることをやった方が生き残れる、
経営者は、いくらチャンスとは言え、一か八かの大勝負などせず、固い保守的な方が生き残れる、
芸人は破天荒な生活は「けしからん。」と批判され、品行方正でないと生き残れない。
と、まあ世の中全体が、”可もなく不可もなく”、周りと同じことをしていないと生活がしにくい、
芸人なんかは、とんでもないことをして「あいつ、アホやなあ。」と一般の人が笑いの種にするくらいがいいのに、
品行方正な芸人なんか、あまり面白いとは思いませんね。
そんな、”事なかれ”、”出る杭になりたくない”、と言う考えが、
今の日本の政治・経済・文化等全てにおいて停滞している遠因ではないかとさえ、思えてきます。
「一体、そんな日本に誰がした!」と言いたくなりますね。
”人に批判されたくない” ➡ ”目立たないように可もなく不可もなく” ➡ ”周りと同じことをしてたらいい”
と言う考えでは、正しいものも見えなくなります。
関電の経営陣の金品に対する鈍感な非常識さや、今ちょうどテレビ等で騒がれている河井元法相夫妻による買収等、
立派な大学を出て、立派な活躍をして、大会社の社長や会長に、また各市町村の首長や議員になった人が、
「周りがもらっているから。」「自分だけ断るわけにいかなかったから。」などと”たわけたこと”を言いながら、
善悪の判断ができずにお金をもらってしまっている。
不思議ですよね。
上に立つ人は、それなりの道徳観や周りから尊敬を集める人間性が必要なのですが、
お金をもらった人たちの部下や選挙で投票した人たちは、今、どう感じていることでしょう。
武士道の中には、「卑怯なふるまいや議に反することは命をかけて阻止する。」と言った内容がありますが、
今の世の中、武士道の精神を理解し、正義を全うすると言った心構えが薄れていると言うことでしょうね。
このようなことを書いてる私も、いざ同じ立場で同じグループの一員だとしたら、
自分だけ違うことができるか、正直言って自信がありません。
この間もマスクを忘れて外出をし、まずバスに乗りました。
そうすると、周りの人から、チラッ・チラッと見られ、
喉がいがらっぽくて、ゴホンと咳をしたら、急にジロッ、ジロッと見られ、
「えっ、何でこの人マスクしてないの?」みたいな目で睨まれます。
次に電車に乗ったら、向こう側に座っている人が、やはり、チラチラと不思議そうな目で見ています。
何か自分だけが奇異な服装でもしているような、ちょっと恥ずかしい気持ちになり、
結局、わざわざ高いマスクを買ってしまいました。
たかがマスクくらいで、周りに妥協していると、みんなと違う意見や自分が正しいと思ったことも
堂々と主張できないなと反省した次第です。
正しい事について、
何かの本に書いてありましたが、昔、唐の詩人、白楽天が、えらい和尚さんに、
「禅の神髄とは何か?」問うと、「悪いことをするな、良いことをせよ。」と言われ、
馬鹿にするな、と怒ったところ、その和尚が、
「その通り、三歳の子供でも分かっていることだが、私は八十を過ぎて、いまだ行うことができん。」
と言われ、なるほど、と恥じ入ったそうです。
そのように何が正しいかは、できるかどうかより、「そうありたい。」と常々思うことが大事で
できないからこそ、「そうしましょう!」と口にしなくてはならないのではないでしょうか?
そして、一歩でも正しいことに近づくように努力することで間違いを犯すことが減るような気がします。
みなさん、「可もなく不可もなく」ではなく、不可もあるけど可もあり、周りが何と言おうと
自分が正しいと思うことを貫く、そんな生き方がしたいですね。
では、次回は7月10日ころです。
コロナ・コロナで何となく一年の半分が過ぎました。
光陰矢の如し、ですね。