お花の好きな女の子 No.150

大きな戦争が起こるずいぶん前、肥後の国熊本の農家で一人の女の子が生まれました。小さなころから目がぱっちりと大きく、両親やお兄さんお姉さんからずいぶんかわいがられて育ちました。ただ、小さい時から体が弱く、小学生のころには長い間学校を休まねばならないとほどで、周りの人はみんな「この子は長生きできないだろう。」と思っていました。それから数年、お花が好きな少女は、いつもお花を摘んだり、お花の絵をかいたりと幸せに過ごしていました。何年かして小学校を卒業するころになると、少女は女学校に行きたいと思うようになりました。ところが田舎の農家ですから小学校を出ると家を助けるために働くのが当たり前で女学校になんか行けるはずがない、やっぱりあきらめようと思った時に厳格で村の区長などもしていた少女のお父さんが、「女学校に行きなさい。後は心配しなくていい。」と言ってくれたのです。やはり、少女の体が弱いので今のうちに希望をかなえてあげようと言う親の気持ちだったのだろうと思います。少女は喜んで女学校に行き始めます。ところが大きな戦争が起こり、日に日に食べるものが無くなったり、学校へ行くより武器を作る工場に行ったり、竹やりの訓練をしたり、挙句の果てに熊本の田舎にも敵の飛行機が来るようになり、ある日の帰り道では、すぐ横を機銃の弾丸がかすめ、生きた心地がしなかったそうです。そんな、暗い時代も終戦で大きく変わり、少女も女学校を卒業し美しい娘さんに成長しました。村でも評判の美人さんですから、大きな土地を持った地主の子や隣村からもたくさん嫁に来てくれとの話がありました。そんな中、隣の村の貧しい農家の三男坊で小学校を卒業すると同時に予科練と言う軍隊に入隊し、特攻隊で敵艦に体当たりをする1週間前に終戦になった運のよい青年がいました。その青年は娘さんより4つ学年が上、体が大きく近所でも有名なガキ大将で喧嘩に明け暮れてるような少し乱暴な人でした。ただ、三男坊という事で熊本から福岡県の八幡に出てきて、製鉄所に勤務しており、いわゆるサラリーマンでした。青年は八幡から実家の熊本に帰るたびに娘さんのことが気がかりでした。戦争に行く前から可愛い娘さんで、いい娘だなあと憧れてはいましたが、自分なんか貧乏だし三男坊で財産も無いし、とても来てくれないだろうと諦めていました。ところが、娘さん のお父さんは、「この子はお百姓さんでは体がもたないだろう。」と他の良い条件の縁談をすべて断り、体の大きな青年に嫁がせました。娘さんは20歳を過ぎたばかりでした。青年は、飛び上がって喜びました。「一生かけて、この人を大事にしよう。」と誓いました。それから、二人の八幡での生活が始まりますが、最初は6畳一間の間借りです。給料も安いし、娘さんは誰も知った人がいない都会に出てきて戸惑う事ばかりです。でも青年は娘さんのために必死で働きました。休むのも忘れて夜も昼も人の分まで働き、遊ぶことは一切しませんでした。その後、21歳で長女を生み、24歳で長男を生みました。二人にとって子供は宝でした。自分たちは一切贅沢せず我慢して、時々、子供にはしゃれた洋服を買って着せたり、子供が夜、おなかが痛いとか、どこどこが痛いと言うと夜にもかかわらず、背負って病院に走りました。ある時、少しずつためたお金で小学生の息子の誕生日にちょっといいズボンを買ってあげました。喜んだ息子は急いで遊びに行きましたが、帰った時にズボンは泥だらけ擦り切れて穴が開いていました。せっかくのズボンを泥だらけにしてガッカリです。でも「まあ、元気な証拠だろう。」と夫婦は笑っていました。そんな貧しくても幸せな家庭を築いた二人ですが、その後も娘さんの体はたびたび病気に襲われました。でも、夫婦二人手を取り合って頑張り何とか乗り越えていきました。息子を大学まで行かせて、子供たちも成人し、夫婦二人の生活になったころからは、病気と言う病気もせず穏やかな生活を送れるようになりました。きっと、若いころに苦労したご褒美を神様から頂いたのでしょう。さらに夫婦は、それぞれ年を重ね、青年が定年を迎えてからは、それまで行けなかった旅行などにも何度も行きました。たまには、美味しいものも食べれるようになりました。「若い時に苦労した甲斐があったね。」と言いながら、二人は互いを補い幸せな時を重ねました。あまり長生きはできないだろうと言われていた娘さんも、気がついたら、結婚して70年を迎え、娘さん91歳、青年も94歳、その間、夫婦の親も亡くなり、それぞれの兄弟や友人たちもほとんど亡くなって、おじいちゃんとおばあちゃんになった二人ですが、「さあ、二人でもうちょっと頑張って生きて行こう。」と言ってるときに突然おばあちゃんの体に異変が起きました。以前患った病気が再発したのです。ちょうど桜が満開の時に「治療が難しいかも。」と医者に言われ、桜が散ると同時に命の灯も消えました。母が亡くなりました。世界中が敵になったとしても最後まで味方してくれる優しい母が亡くなりました。棺の中には好きだったお花を溢れんばかりに入れました。火葬場で最後の別れをするときに、それまで黙っていた父が大きな声で「ばあちゃん、ありがとう!」と声を掛けました。きっと、その気持ちは届いたことでしょう。安らかに眠ってください。

葬儀の後に母が書いていた日記のようなものがあり、父が見ていました。その中には、「明日、信哉が帰ってくるからうれしい。」とか「信哉が〇〇してくれた。」「信哉が・・・・」と私のことが何回も出てきたらしいです。私はとても読めません。なぜ、もう少し親孝行をしてやれなかったのか、後悔だらけです。いくらやってもこれで良いと言えないのが親孝行でしょうが、もう一度同じ人生を送るならば、あと100倍でも親孝行をしてあげたのにと悔やんでいます。後悔先に立たず、あとは残った父にせいぜい親孝行をしたいと思います。

 

(あとがき)

たまたま、いい絵がないかとネットで探していたら、写真の絵がありました。大正15年の「少女世界」と言う雑誌の中の1ページです。そこに「春の堤」と言う詩がありました。それは「春の堤に在りし日の、君のすがたをしのぶなん、日はまざまざと照らせども、赤き鼻緒はそこになし。」と言う詩です。葬儀の時も良い天気で新緑の緑に野の花がそれは奇麗に咲いていました。悲しい事ではありますが、その内、年取って人生の終わりが近づいたとしても、また優しい母に会えると思うと、楽しみができたように思います。それまで、一生懸命生きようと思います。

今回は、全くのプライベートなことで申し訳ありません。

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