命もいらず、名もいらず・・No.231

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日本人に、「尊敬する歴史上の人物は?」と言う質問をすると、あがってくるのは、織田信長、坂本龍馬、徳川家康・・・・西郷隆盛、勝海舟等々、大体知っている名前が多いのですが、今日はベスト100の中にも入らない人の話を書いてみたいと思います。今から178年前の今日6月10日(旧暦)江戸本所で蔵奉行小野朝衛門の4男として生まれたのが、小野鉄太郎(写真の人物)後の山岡鉄舟です。このブログをずっと読んでいただいている方であれば、時々、山岡鉄舟の話を織り込んでいるのでご存じかもしれませんが、私は、この人はすごい人だと思っているのです。大体、勝海舟などと言う大ぼら吹きが、明治になってずいぶん経ってから(明治14年)新政府による維新の功労調査の際、「江戸無血開城は、自分がすべて成し遂げた。」みたいなことを書いて提出したので、「勝は英雄だ。」と言う間違った評価がまかり通っているだけで、本当に江戸の町を救い、さらに江戸が戦場になって、泥沼化したら、それ以降の日本の政治はマヒし、諸外国の進出を許したかもしれないという日本の危機を救ったのは、徳川慶喜と慶喜の意向をもとに西郷と交渉をした山岡鉄舟に他なりません。慶喜の意向を聞き、交渉の矢面に立った鉄舟が、西郷に会う前に勝に初めて会ったとき、勝は「何か手があるのか?」と聞くだけです。鉄舟は、「多分、自分は捉えられ殺されるだろう。ただ、その殺される時に西郷に聞こえるように慶喜公の意向を述べるのみ。」と死を覚悟して江戸を発ちます。途中、鹿児島弁を話す者を一人だけ連れて、当時、静岡に駐屯していた官軍の陣営に向かいます。道中、清水の次郎長などの手を借りながら、官軍がうようよいる敵陣営に入ります。その際にも大声で「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る!」と言いながら歩いていきますが、あまりにも堂々としていて官軍はみな道を開けたそうです。苦労の末、西郷に会い、慶喜の意向を伝えた山岡ですが、西郷たちの官軍は、打倒徳川に燃えており、何としても江戸を落とす覚悟でいます。結局、西郷から5つの条件を引き出すことに成功しますが、江戸城を明け渡し、城中の兵を移すことなどの中に、主君徳川慶喜を備前藩に預ける、と言う一文があります。主君を差し出して、自分ら家臣が何事もなかったような顔で暮らすことなどできない、これだけは、受け入れ難い、と言いますが、西郷は「朝命(天皇の意思)である。」と凄んでみせます。それでも山岡は、「もし島津候(西郷の主君)が同じ立場であったら、あなたは受け入れないはずである。」と反論します。とうとう西郷は、主君慶喜と江戸100万の庶民の命を守るために単身、命をかけて乗り込んだ山岡の言葉に心を動かされ、「先生(山岡)のお言葉、ごもっとも。」と周囲の反対を押し切って、山岡の主張を認め、江戸城を攻めることを断念します。ここに「江戸無血開城」が決まりました。そのあと、形だけ西郷と勝の会談が行われた訳なので、誰がどう考えても江戸無血開城は勝の手柄ではなく、山岡の功績です。現に、慶喜は「江戸を救った一番の手柄は山岡である。」と自ら短刀を送り感謝していますし、西郷は山岡の人物を高く評価し、たっての願いで明治天皇の侍従として天皇の教育係を依頼します。勝の維新功労調査を読んだ山岡は、嘘だと思いながらも勝の面目を潰すので一言も言いませんでした。それを見た事実を知っていた局員らが三条実美や岩倉具視と言った政府の高官に伝えると、「手柄を勝に譲るのは良いが事実は後世に残さねばならない。」と鉄舟に事実を提出させたエピソードもあります。そんな山岡ですが、生涯赤貧と言っても良いような暮らしをしています。剣の道を究め、禅についても修行を究めていますが、自分の暮らしや財産には頓着しないようで、頼まれれば書を送り、生涯何十万枚と書いたそうですが、もらった謝礼は全て、貧しい人たちに配り、自分は食うや食わずです。西郷に会いに行く際にも腰の大小(二刀とも)は持っておらず、買うにもお金がないので結局腰に差していたのは知人に借りた大小でした。また、お金だけでなく名誉などにも執着しない人で、後日、明治政府から山岡に勲章を授けるということになり、後の外部大臣井上薫が山岡の家に勲章を持参した(山岡は何回もの呼び出しを無視していた。)とき、もらった勲章を家族に見せ、「ありがとうございました。」「もういいので持って帰ってくれ。」それを聞いた井上が驚くと、「大体、お前の胸にあるのは何だ、勲一等の勲章だろう。なのに、俺に勲三等の勲章を渡すというのは、ちとおかしくないかい?」「維新の大業は俺と西郷で成し遂げたようなものだ。それにくらべりゃ、お前なんかは、ふんどしかつぎじゃないか。」と言って勲章を断っています。山岡姓を名乗ることになったいきさつも型破りで、山岡静山と言う槍の名人に師事したのち、静山が早世すると、山岡家に頼まれて妹の英子(ふさこ)と結婚し婿養子になるのですが、小野家(鉄舟の本家)は蔵奉行の家、山岡家は下級武士の家で、当時としては格が違い過ぎます。しかも。その下級武士の家に婿養子に行くなど、考えられなかったそうですが、鉄舟は気にもせず、婿養子になっています。そのような鉄舟を評して西郷は有名な言葉を残します。「命もいらず、名もいらず、金も官位もいらぬ人は始末に困る。」「しかし、そのような人でないと大事は成し遂げられない。」と言ってます。こんな魅力的で胆力もあり、大事をなした人物が、尊敬される人物100選にも入らず、司馬遼太郎のフィクションを事実と思って人気のある坂本龍馬や好きかって言ってる勝海舟が上位とは、誠にもっておかしいですね。そんな山岡鉄舟は身長188cm、体重100Kgを超る堂々とした体格だったそうですが、52歳でガンで亡くなったようです。亡くなるとき、皇居に向かって正座をし、その格好のまま息を引き取りました。今の時代こそ、こんな人が出てほしいですね。今回は、私の独断と偏見で書いていますので、坂本龍馬や勝海舟ファンの方、気にしないでくださいね。私は好きではありませんが、、、、、、、。

 

(あとがき)

山岡鉄舟は、いくつかの名言を残していますが、一つ紹介します。「晴れてよし、曇りてもよし富士の山、もとの姿は変わらざりけり。」人間もそうですね。晴れても曇っても(良い時も悪い時も)、この自分と言うものは変わらないはずです。どんな時でも負けずに自分を信じて前に進みましょう。では、次回は6月20日ころに更新します。

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