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今から、424年前の9月15日(今の暦では10月21日にあたる。)天下分け目の戦いが岐阜の関ヶ原で行われました。写真は、行きたかった関ヶ原古戦場記念館で武将姿に扮して撮ってもらったものです。
それにしても、この関ヶ原の戦いは、東軍7万、西軍8万と言う大人数でありながら、たった数時間(6時間くらい)で決着がついたそうです。6時間と言うと、ちょうど先日9時スタートでゴルフをして、昼ご飯を挟み6時間、大体3時ころに終わりましたが、それと同じくらいの時間で、7万人×8万人の戦いが終わっていた訳です。その理由は、小早川秀秋らの裏切りや吉川広家、毛利秀元の不参戦などで実際の勢力は、東軍7万+約2万の9万人に対し、西軍は8万ー約4万で半分の4万人、つまり9万対4万の戦いだったから、と言うことも大きな理由だと思います。
もし、小早川が裏切らなかったら、毛利勢が参戦していたら、などなど歴史には、ほんの一つのファクターが大きく結果を左右することが多々あります。いくら万全を期していても最後には、一か八かの賭けに出ないといけないことがあり、その賭けに勝った人だけが歴史に名を遺すのですが、徳川家康などは、若いころ武田信玄に痛い目にあわされましたが、その後は賭けに勝ち続け天下を取ったと言えます。関ヶ原の場合も東軍西軍と言っても、まだこのころは豊臣の天下です。したがって、東軍西軍双方の諸将も基本的には、同じ豊臣傘下の武将、万が一西軍の後ろに豊臣秀頼が出張ってきたら東軍の半分は、戦いを止めます。そんな噂が立つだけでも足並みが乱れ、家康はこの戦いに勝てなかったでしょう。また、西軍には立花宗茂と言う生涯一度も負けたことがない武将がいて、1万5千の兵士ともども大津まで来ていました。もし、宗茂が西軍に参戦していたら、西軍の力が増すだけでなく、小早川は裏切らなかったかもしれませんし、毛利勢もどうなったか分かりません。そんなこともあって、家康は内心ハラハラしながら、早く決着をつけたかったことでしょう。
そんなことを考えながら、古戦場をめぐっていると、首塚跡や武将のお墓などもいくつかあり、華々しい勝者の栄光だけでなく、敗者の無念さや憐れみを感じさせてくれます。もし、家康が敗れていたら、ひょっとして”徳川家康の墓”と書かれた場所が、この地にあったかもしれません。
勇猛で凛々しい武将たちの戦い、そして勝者と敗者の運命の分かれ目の跡を訪れて、今この平和な時代のなんと幸せなことか、あらためて感じた旅でした。
(もう一言)
関ヶ原の古戦場記念館は、おすすめです。たった500円の入館料で、椅子も振動して臨場感あふれる動画が見れたり、写真のように武将に扮して写真が撮れたり、VRのゴーグルをつけて、突進してくる騎馬武者や島左近と切りあうゲームができたり、資料も豊富で本当に楽しめました。行ったことのない方は、一度行かれてみてはどうでしょうか? では、次回は20日ころに更新します。