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異才、奇才、石原莞爾 No,271

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今年は、太平洋戦争が終わって80年。先の大戦にまつわる人物を何回かに分けて通り上げてみたいと思います。

以前のブログで、真の侍「樋口季一郎」を取り上げたことがありますが、今回は、その樋口季一郎と陸軍士官学校で同期だった「石原莞爾(いしわら・かんじ)」について、少し書きたいと思います。

この人のことは、名前くらいしか知らない、もしくは名前も知らない人が多いと思います。また、この人のことを知っている人は、日本を戦争に導いた悪い奴(満州事変の首謀者で南満州鉄道を偽装爆破して、満州国建設に動いた。)みたいな認識で、歴史の表舞台には表れてこない人でした。ただ、私は、この人はただの悪人、戦争責任者と言う言葉だけで済ませてしまうには、大変惜しい人かなと思っています。自分の思うところにまっすぐに行動し、思ったことを誰彼構わず好き勝手に言い放つストレートさは、他に類を見ない傑物だと言えます。まず、満州事変の後、東京で参謀本部作戦課長だったころ、2・26事件が起きます。石原は、この鎮圧のため動くのですが、血気はやる青年将校たちに銃を突き付けられながら、「新品少尉、ここを通せ、俺は参謀本部の石原大佐だ。」「何が維新だ、何も知らん下士官を巻き込んで。やめねば討伐するぞ!」と一喝、その後に事件の思想的バックボーンである荒木貞夫と言う陸軍大臣などを経験している大将に、10歳以上年下で、たかだか一大佐の石原が、「お前みたいなバカな大将がいるから、こんなことになるんだ!」と言い放ち、荒木が激しい剣幕で「上官に向かってバカとは、何事か、軍規上許せん。」と言い返すと「反乱が起こっていて、どこに軍規があるんだ!」と言い返すなど、この人の言動は当時の軍隊でのルールなど全く意に返しません。

その後、関東軍で東条英機とやり合います。東条のことを「憲兵隊しか使えん、女々しい奴。」と言ったり、さんざん悪態をついて、結果的に1941年に第一線を引くことになりますが、ミッドウエー海戦敗北の後、東条が戦争の天才である石原に意見を求めたときも「戦争の指導など、君にできないことは初めから分かっている、すぐに総理大臣を辞めろ。」と言ったり、もう言いたい放題です。

その石原の言いたい放題の真骨頂ともいえるのが、東京裁判での発言です。東京裁判では、石原は責任を問われず、証人として検察側から意見を聞かれます。それは、検察側の思惑で、東条と犬猿の仲である石原に東条に不利な証言をさせようと言うものでした。ところが、石原は「なぜ、俺を裁かんのだ。」とか、山形で病気療養をしていた時も東京に呼び出しをくらうと、「お前らがこちらへ来い。」と東京裁判山形法廷が開かれ、石原が、「いつまで遡って日本の戦争責任を追及するのだ。」と問うと、裁判官が「日清日露の戦争あたりまでやりたい。」それを聞いた石原は、「ほう、それなら、ペリーをあの世から連れて来い。ペリーが来るまでは日本は鎖国だった。日本に帝国主義や他国の侵略を教えたのはアメリカだ。」また、「東条との思想の対立などない、なぜなら東条には思想など初めからない。」と言うのを聞き、裁判官がようやく東条に不利な証言が聞けると、畳みかけるように「この戦争で一番の罪深い戦争犯罪者は誰だと思うか。」と問うと当然、東条と言う言葉が出てくるだろうと思っていた裁判官は、とんでもない言葉を聞きます。石原は「それは、トルーマンだ!」続けて「確かに日本軍が民間人を殺したかもしれん、しかし、それは戦争と言う狂気の中での偶発的なことに過ぎん。それに比べ、計画的に都市を空爆し、原爆を落として何十万と言う民間人を殺したのは誰だ。」「このトルーマンの行為こそ、第一級の戦争犯罪人だ。今日(こんにち)戦勝国が、このような行為を抗弁しようとも、公正な第三者や歴史によって裁かれるのは間違いない!」

どうですか、まさに正論だと思いませんか。戦争に負けてすべての日本人が自信を無くし、何もかも戦勝国の言う通り、日本がすべて悪いという風潮の時にたった一人、誰憚(はばか)ることなく堂々と自分の意見を述べる。こんな人、石原莞爾以外にいたでしょうか? しかし、このことは当然ながら議事録には載りません。このようなことを言う石原を、GHQが最も恐れたというのは、理解できるような気がします。正しいことは誰に対してでも正しいと言える、そんな石原の答弁を聞いていた日本人の記者は、涙が出たと言ってます。答弁が終わった後、石原の横まで駆けつけて、「将軍(石原のこと)私は本当に嬉しかった。戦争が終わった途端に部下に責任を追わせたり、コソコソ、ビクビクした様子を見せる人間が多い中、将軍(石原)の態度や発言は、周りに勇気を与えました。」と、つぶやいたそうです。外国の言うことにフラフラして、選挙では目先のことしか考えない今の政治家に、こんな石原の言葉を聞かせたいものですね。

 

(あとがき

こんな石原のことを「もし、石原が東条との確執に勝って軍のトップに立っていれば、あの戦争は負けてなかった。」と言う人もいます。そのくらい戦争については天才的で、満州事変の時も1万余りの勢力で20万の相手を圧倒したり、東京裁判でも初めから負けるような戦争をなぜしたのか?と言われ、「戦争は数じゃない、俺が指揮していたら、俺と君たちの立場は逆になっている。」などと言ってますが、実際にどうしたら負けなかったのか、と言われ持論をぶってます。「伸びきった戦線を大幅に放棄し、サイパンなどには徹底的に防衛を集中し難攻不落にする。また中国とは講和を目指し、勢力を集中すれば、アメリカともまだまだ戦える。サイパンを落とされなければ日本本土の空襲は無いはずだ・・・・。」それを聞いた外国人記者たちは、「なるほど、そうかもしれんな。」と感心したそうです。そんな戦争の天才も戦後は、希望を失っている国民に講演などをして回りました。「みなさん、戦争は神の意志であり、負けてよかった。勝った国々はますます軍備増強するが、これからの日本は軍備費が要らないので、それを内政に使えば、将来は必ず日本が先頭に立つことができるはずです。心配いりません。」まさに、その後の日本を言い得ているようです。それから4年後1949年の終戦記念日に稀代の天才、石原莞爾は息を引き取りました。記憶に残しておくべき人ですね。

では、次回は8月10日あたりに更新します。

 

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