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今日はまだ7日ですが、今回は少し早く更新しました。
私は昔から、目的に関係しないことや無駄なことが嫌いで、遠回しな説明などを聞くと、言葉を遮って「要点は何?」と聞いたり、何かやるにしても「最短はどの方法か?」ばかり考えていたように思います。その上、づぼらで片付けが下手。今でも机の上は、書類などが無造作に置いてあり、必要に迫られて片付ける始末。そんな私が2~3日前、庭の芝生が伸びきっていたので芝刈りをしました。いつものように、さっと済まそうと思いながら、猛スピードで芝を刈っていると、普段は全然気づかない名も知らない花がひっそりと咲いています。ふと手が止まり、「面倒くさいけど、この花、残してみようか?」などと自分らしくない思いがわき、芝刈機をとめて、花に傷がつかないように注意して周りを刈りました。(写真)別に特別きれいなわけでもなく、その辺にある小さい花を、何となく残した後に「なぜだろう、我ながら、何か余裕みたいなものができたのかな?」と考えながら、昔のことを思いだしていると、余裕などと言う言葉は全く出てきません。出てくるのは反省ばかりです。「あの時、あんなにきつい言い方して、言われた方は傷ついただろうな。もう少し相手のことを考えてやれんかったんかなあ?」とか、「自分が正しいと思えば、押すことばかり考えて、一旦引いて受け止める、と言うことはできなかったなあ。」さらに、「よう考えたら、自分のことばかりが中心で、周りの人たちは振り回されたやろうなあ。」などなど、特に現役で仕事をしている際は、責任が重くなればなるほど、周りに気を配る余裕がなかったような気がします。
「今ならこうしたのに、なぜあんなことをしたんだろう?。」「今と昔は何が違うんだろうか?」~と考えて、ふと感じるのは、70歳を越えて、体力や物覚え、新たなことへのチャレンジ精神などは確実に衰えていますが、逆に、仁・義・礼・智・信(相手を思いやり、正しいことをし、礼儀をわきまえる、などの気持ち)で表される道徳観は、自分で言うのも何ですが、年を積み重ねると共に、読んだ本や会った人たちの言葉などから養われ、その点では若いころより成長しているのではないかと思います。しかしながら、今が全て正しいか、これ以上の成長がないかと言うと、それも間違いで、こんな逸話があります。以前にも書きましたが、唐の時代の詩人で、有名な白楽天が杭州の長官になった時、鳥窟禅師(ちょうかぜんじ)と言う偉いお坊さんに「仏教の極意とは?」と聞くと「正しいことをせよ。」と言われました。「そんな三歳の子でも分かるようなことではなく、仏教の極意を聞きたい。」と再度、白楽天が聞き直すと、「そうだ、三歳の子でも分かることだが、八十を越えた自分でも、まだそれができん。」と言われ、自分の至らなさを恥じ入った。と言う話です。だから、私が70歳を越えて昔より精神的、道徳的には成長したと言っても、まだまだ未熟なんだろうと思います。 ついでに、もう一つ話を・・・・、明治、大正、昭和を生きた平櫛田中(ひらくしでんちゅう)と言う彫刻家が、百歳の時に「七十,八十は鼻たれ小僧、男盛りは百から百から。」と言って106歳まで製作を続けたそうですが、この鼻たれ小僧と言う意味は、肉体的なことではなく、精神面のことで、まだまだ修行が足らん、もっともっと「何が正しい事か?」「何をすべきか?」を生涯かかって追求せよ。と言う意味だと捉えています。そう考えると、自分自身も80になった時に「70歳のころは、あんなことしかできなかったのか、大いに恥ずかしい。」90になれば、「70,80の時は、まだまだ未熟やったなあ。まるで鼻たれ小僧と同じだ。」と言えるような年の取り方をしたいと思いますね。人生100年時代、どんどん体力が無くなり知識も衰えて行くが、人間としての成長は、まだまだこれから! 死ぬまで勉強ですね。がんばりましょう。
(あとがき)
平櫛田中の言葉でもう一つ有名なのが、「今やらねば、いつできる。俺がやらねば、誰がやる。」もう一つ、「やってやれないことはない。やらずにできることはない!」100歳近くで、このような気持ちを持っていたとは、「本当にすごい!」まさに人生100年時代の先取りみたいな人ですね。
と言うことで、鼻たれ小僧やまだまだおしめをしているような皆さん、次回は20日ころに更新します。
